わたしのヒロシマの言葉たち
少しずつ、ヒロシマの子どもとして動いてみようと思います。
原爆詩は黙読するものだと思っていて、朗読することが嫌で、それならばどうするのか、と考えた続けた数年。自分の言葉で話すしかないのだと気付きました。
発表会で「父と暮せば」をやったとき「思い入れがありすぎるのも芝居には良くないのかも」と何人かに言われたのですが、だからといって削ぐのはあまりに安易。無責任に伸び伸びとやる方がおもしろいならば、わたしは「思い入れ」を越える勇気を奮って、そう、奮って、自分の意志で生み出していかなければならなかったのだと思う。「あの八月は、お話もない」と言いながらあの八月を芝居にした、作家のように。
被爆者の目線ではなくて、あくまでヒロシマで生まれ育ったわたしの目線で10代の頃から書き留めてきた、詩にもならないエッセイにもならない、それだけでは何にもならない小さな言葉たち。
水に落ちた葉が水面をゆらすようにささやかに、何かが生まれればと願って、その言葉に触れた誰かに返事をもらう。言葉や絵や歌で。それを誰かに観てもらう聴いてもらう。そんなことをしてみたい。
興味を持ってくれるひとが在るかわからないし、さらにそれをどこかで展示できるようになるまでにどれくらい時間が掛かるか分からない、まだ何も決まっていない状態で何故ここに書くかと言えば、どうにかして達成したいから。絶対読み終えそうにない本を、「読んでます」と誰かに言っておくことで読み終えられるように。
5月は久しぶりに、「父と暮せば」の勉強会をしていました。これも一緒に発表できたらいいな、と思っています。
七夕の日に
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